-言霊に囚われる

現状分析と、自分のそうであってほしいという願望は違うということを、ものさしの一つに加えると行動や思考がシンプル化すると思います。最近鳴りをひそめつつもところがどっこい、ひさびさの天才羽生章洋ですが、現実とは何か、と自分の考察を分けている。寿命を一ヶ月ぐらい削ったんじゃないでしょうか。こんなにキレたことを言ってるからには、早く死にそうですね(これはネタね。以下で説明)。
http://d.hatena.ne.jp/habuakihiro/20060707#1152265986
言霊に囚われるとそうはいかない。自分の願望にそぐわない現実から目をそむけてしまうのです。なぜなら、言霊ワールドでは書いたり話したことが現実感として捉えられるためです。日本の結婚式のスピーチでは「切れる」「割れる」といったことはタブーとされます。受験生の前で「すべる」「落ちる」も言いません。しかし、グローバルスタンダードではちがって、キリスト教なら「富めるときも貧しきときも、健やかなるときも病めるときも、汝は。。。」となる。当然のことながら夫婦で長年連れ添ったら、貧しいこともあるだろうし、病気になるときもあるということを、結婚式のそれも一番大事なこととして誓うのです。そして驚くべきことに「死がふたりを分かつまで」。結婚式に「死ぬ」言ってますがな。神道だったらタマフリ、コトアゲで万歳です。でも人間は1万年生きるわけがない。
必ずしも非日本的な考え方が良いことはないと思うのだけれども、この点は日本人の弱点になっているのではないかな。できてないことと、やりたいことを混同してはしょうがない。逆にやれていることと、それに自分の嗜好の合う合わないを持ち込んでもダメです。
まずね、Seasarファウンデーションなんてマイナーなんだよ。各プロダクトの品質だってまだまだやれる。その現実のへぼさを夢物語でだましてもしょうがない。逆に、Seasarファウンデーションはとても充実した活動をしていますよ。でも無責任で現状分析が丁寧に行われていない適当な発言で右往左往している。これは他人ならず、自分自身の内なるところで、言霊にことさら囚われているからじゃないかなと。現実を丁寧に客観的に見ようよ。そしてその後にリスクへの対応とポートフォリオの再構築を行っていくことが求められるわけですね。
羽生さんが明日死んでも、私の責任じゃないですよ、まさたか日記はDeath Noteじゃないから。でもお葬式では「私があんなことをBLOGに書いたばかりに。。。取り返しのつかないことをしてしまいました。ごめんなさい」と号泣してみせます。それが言霊にとらわれた日本人には求められているからです。その傾向も理解したうえで立ち居振る舞いが求められてもいます。