-履歴

ひがさんとはぶさんがそんなことを書いていたので、まねっこ。

  • 少年期

私の初PC体験は、小学校5年生のときにおじいちゃんにねだってPC6001mk2を買ってもらったことです。いまから思い出そうにも、なぜPCが欲しくなったのかわかりません。が、買うからにはいろいろ調べて、Apple2とかぴゅう太とかに比してく中、よいように思ったのです。BASICで絵を描いたり、音楽鳴らしたりという程度ですぐ飽きちゃったのですが、代わりに父親がゲーム作りにはまって(あれは息子への家族サービスであった、と一児の父となった今では思いますが)、私要望即父対応でオリジナルゲーム開発?を1年ちょっとぐらいやってました。その後は中学受験期に入って埃をかぶってます。中学高校はずっとサッカーと女の子のことしか頭になかったので、友人は8801系とか9801系のPCもっていてゲームやってましたが、興味なし。

  • 学生期

私が高校3年ぐらいのときだと思うのですが、父親が急にPC9801RA21というPCを買ってきました。一太郎とLotus123をやるためです。当初は大学受験期だったので勉強と女の子のことしか頭になかったので、触らず。興味なし。
大学に入ってからは文系だったので、麻雀と女の子のことしか頭になかったのですが、激暇なときに近所に「ステップ」という倉庫販売の電気屋さん(後に、バッタ売り大手となりいまはどっかに行っちゃった店)でゲーム買ってきました。しかし、なんだったか忘れましたが(おそらく光栄の歴史もの)そのゲームはWindows3.1対応だったのです。よって、ハードディスクとOSを買う必要が生じました。しばらくは環境構築とゲームにハマリます。そのなか、ゲームだけに飽きた私は、VisualC++なるソフトを買いました。プログラミングできたらいいなと思ったのです。しばらくはVisualC++で画面を出したりすることに集中します。基礎がなく、まともな書籍等も教えてくれる人も無いのでたいしたことはできません。手に職つけようと公認会計士になろうかなと思ったので、大学の後半はダブルスクールでTACの公認会計士コースに学びましたが、もとより勉強する気持ちがうすいので、女の子のお友達を作って終わりです。が、このときのわずかながら勉強した会計知識が後に開花します。

  • 就職活動期

大学4年の夏、就職活動も終え某都銀に決まった後、ちょうどそのとき彼女がいなかったので女の子のことしか頭になく、邪な気持ちからフロムAtoZを買います。ファーストフードとかで、夏休みの大学生・高校生のバイトちゃんとあれこれしようと思ってました。しかし、それまで家庭教師などの親戚から小遣いをもらうようなバイトしかしたことなかったので、ファーストフードバイトの時給の低さに愕然とします。フロムAtoZのページをめくるうちに、高額バイトを見つけました。プログラミングです。VisualC++で遊び程度のことしかできないのと、求人の大抵は要2年経験だったので、その中でも高額かつ初心者歓迎なのをさがして電話して面接してもらうことにしました。これが人生の大転機です。
バイトで行った先は新宿のマンションの一室でちょっと怪しげなところになります。場所探すうちにぶっちぎって帰ろうかと思いつつ、勇気をだしてドアをノックしました。ドアから顔を出した人にびっくり。なんと私はそのひとを知ってるのです。TACの公認会計士講座の先生でした。1年、その人の授業を取ってたのです。すぐ安心、意気投合。仕事はVisualBasicで会計パッケージをつくることです。私はVBは何もしりません。が、なんとかなると思ってやってみたら一ヶ月ぐらいで何とかなりました。2人で半年やってパッケージはできました。VBのスタンドアローンアプリで、VB2ですからデータベース無し。永続化は自前でやってます。この開発過程でVBにはいろいろ疑問があったんですが、VC++に戻る気力はない。。。そんな中で出会ったのがDelphiです。1996年初春、Win95フィーバー前後です。

  • NIFTY期

Delphiをさわっても本なんて一冊もなし。ヘルプが頼りの五里霧中の時、たまたまNIFTYを知りました。Win95=インターネットでなく、Win95=NIFTYな私です。半年うろうろしているうちに、ひょんなことからFDELPHIを作ってました。1996年9月のことです。この前後あたりからとてつもなく恵まれた状況になります。就職がきまっていた某都銀はすでに断っていて、楽勝2単位を残して大学5年生になってました。一年で2単位をとればいいので、1年生の取るフランス語会話をとりました。理由は女の子が多いからです。念のためさらに2単位、フランス語作文というのもとっておきました。これで、毎週水曜日の午前中に2コマ駅前留学みたいな授業にでればOKなことにしておいて、あとは技術研鑽です。若いし、一応シスオペということで、何か疑問があればその道のプロがいろいろ教えてくれます。オブジェクト指向からデータベースからネットワークプロトコルまで、知識を増やしていきました。フォーラムのオフということでとてもたくさんの方々とお会いしました。東京以外でも、関西や九州でも行きました。だって時間を縛るものはありませんでしたから。公然の秘密ですがフォーラムにNIFTYからの多額収入がありオフも豪華でした。いわゆるパソコン通信全盛期です。ひがさん、羽生さんと懇意にしていただいたのもこの時期からです。
ソフトバンクのInsideWindowsという雑誌に、盟友新井君をだまして(笑、「Delphiの神託」という連載を書きました(書かせました?)。書くと知識が整理されます。いま思い返しても、このあたりに蓄積したものがベースになってます。ちなみに、新井君はいまは本国Borlandでプロダクトマネージャーです。隔世の感があります。羽生さんとは1997年にFJBUILDRを創設しました。Javaブームの先駆けなんですよ、一応。必ずクル!と思ってやったのですが、結局そこから数年は寒かったです。そんな中、Javaの記事を雑誌に書いたりしてました。翔泳社のDDJとかです。

  • 社会人期

FDELPHIの付き合いの中、誘われるまま小さな会社に入りました。そこではDelphiCTIやって、C/Sの仕事やって。あとJavaでミドルウェアを作りました。そのミドルウェアの名前を1年後に独立して作った会社につけました。1999年7月です。はじめ有限会社だったのですが、初年に羽生さんと仕事で再会して証券会社のフロント構築をお手伝いして食いつなぎ、その利益で増資して株式会社に変更しました。2000年夏ITバブルまっさかりです。
以後、Handspring Visor用のGPSを作ったりとITバブルが続く間に一通りベンチャー企業っぽいことをしまくったうえ、景気の陰りとともに堅めの小企業に落ち着いてきちゃいました。会社では社長ではありますが、ずっとプログラマーな感じ。技術的にチャレンジなことばっかりしてきましたが、C++すこしと、Javaで食ってます。C++でモバイルやって、Javaでサーバー作ってきました。好きなことだけやってます、すみません。

  • 現在

現在もあいかわらずプログラマーやってます。そうはいってもビジネス大きくなってきたので仕事の大半は社長的なことですが、できる限りの時間を技術的なことに割いてます。5年会社をやって、会社として足りないところも会社としての課題も見えたけど、やっぱりまだしばらくはプログラマーをやりたいので、時間を稼ぐべく会社は第三者割当増資し、他社の庇護の下にいれちゃいました。その会社は、大学4年の初夏にバイトに行ったあの新宿の会社です。その後その会社は株式公開して大きな会社になりました。私が関わった会計パッケージで大きく伸びたのです(そうはいっても、私が辞めてからデータベースを利用した作りにガラッと変えていて、おそらく私の書いたコードはまったく残ってないと思いますが)。
ビジネス的にご期待いただいている方々すいません、増資の理由に営業戦略だとか資金繰りだとかいろいろ言ってましたが(ウソではないけど本音は)まだプログラム書きたいんだよ〜。だから、私の作る組織はまだまだプログラマーが王様な組織です。だって私がプログラマーですから。社長してもPMしてもSEの仕事でも、根はPGです。これではいかんと思いながらこっそり告白すると、私は精神的には別に設計とかどうでも良くて、コードで納得いけばOKです。ま、そういいながらも、一通りのことはきちんと世間様なみにやって納めさせていただいておりますが。。。あと、結婚もして子供も生まれてやっと女の子への興味もなくなりました。

  • まとめ

1浪1留1就職浪人なのですが、この1留1就職浪人時期が普通ではなかったと思います。朝から晩まで女の子のこと以外はすべて忘れて、フォーラムやメールのほか直接仕事場に遊びに行かせてもらったりして交流した山ほどのプロによるコーチ付きでプログラム書いてました。ベンダーや出版社に製品供給?うけて、普通じゃ買えないような開発用ソフトやデータベースをさわってました。
その後も、私は極度に人に恵まれていたのと、自分で仕事を作ってきたので、好きなままキャリアを積んでこれてしまいました。周囲に言わせると特殊ケースであって、この経験をもって世の中を語ってはいけないようです。
その「プログラマーとして」恵まれた幸せな感覚を、ささやかながら皆が実感できるようにと作ったのが今の会社なのです。そこそこいい線いってるんじゃないですかね。どうかな。